いつからだか忘れたが、ずっと前から、ふとした時に自分が死ぬときのイメージをしている。
駅で電車を待ってる時とか、信号待ちしているときにスピード出している車を目撃したときとかに、それに轢かれて自分がどうなるかっていうことをイメージする。あとは人混みを歩いているときとか、寝る前とか、なんでもないふとした時にそういうイメージが湧いてくる。
通り魔に刺されて死ぬとか、自分で自分の心臓を刺してるイメージとかは割りと鮮明で、それを繰り返し想像している。子どもの頃から小説を読むことが好きだったからか、想像力だけは自信がある。お陰で鮮明でグロテスクな悪夢もよく見る。
この現象に希死念慮という名前がついていることを最近しった。知ったところで何か変わるわけではないけれど。単純に、ボキャブラリーは増えた。
自分、死ぬなら永久凍土に死体を埋めたいと思っているので、もしロシアとかアラスカとか南極とかガニメデに行くって言い出したらなんか察して放置してください。パスポート持ってないけど。
日々イメトレしつつもそれを実行に移さないのは、単に自分は理性が強すぎるんだと思う。
あーここで死体ばらまいたら色んな人に迷惑かかるなとか、今は部屋が散らかってるなとか、目撃した人にトラウマを植え付けてしまうなとか、そういうことを考えているので未だに実行に至っていないだけである。
しかし、いつでも死ぬという最終手段があると考えると、多少失敗しても「まあいいかな」という気分になれるのでメンタルは強いと思う。
家庭環境は全くもって正常だったし、鬱とかそういうのではない。いや、今まさに抗うつ剤飲んでるのだけども、それは長期的ストレスが体調に出始めたからであってメンタル的には全く正常だと思っている。正常イコールマジョリティ、ではないけれど。そう、自分の思考はマイノリティだと思う。友達が少ないからちゃんと確認したわけではないけど、世の中の人を眺めて、匿名のインターネットを見ているとそう思う。これは本題とは関係がないので詳しくは書かない。
なぜなら自分は長い間、希死念慮に取りつかれているから。多分これはもう性格なんだろうなと思う。
中学生くらいのころ、臓器移植待ってる子どもの話かなにかを聞かされた授業のあとに、自分は同級生に言った。
「自分は他人の臓器を貰ってまで生きたいとは思わない」
そしたらその同級生に「生まれたときから病気の人は考え方が違うんじゃないかな」と返された。
その言葉はすごく腑に落ちた。
それからは「他人の考えていることは理解できないものだ」という前提で考えるようになった。自分の考えていることも多分、他の人には理解してもらえないし、他の人の考えていることを理解しようとするのはめんどくさい。
めんどくさいから生きているのがどうでもいいと思っているのか、生きるのがめんどくさいから人生楽しもうぜ的なことに興味がわかないのかは分からないけど、最近は特に、なにもかもどうでもいいなという気分になることが多くなってきた。
まぁ、積極的に死にたいわけではないけど、いつ死んでもいいように行動しようと常に心がけてはいるのです。
メンヘラのポエムみたいな文章を作成してしまった。暇だったし、何か書きたいと思ったらこんな文章にしかならなかった。
でも、自分のやったことなので公開しても後悔はしないでしょう。
次はちゃんと、誰かの役にたちそうな記事を投稿したいと思います。