ペン一本と、メモ帳

好きなものを好きなだけ

LLMを使ってからアウトプット欲が消えた

以前はブログを書くというのは、自分の考えや体験を文章化して自分で確認するための記録という意味合いが大きかった。 しかしLLM(大規模言語モデル)を使うようになってからというもの、わざわざ文章にして公開する前に確認作業が完了するようになった。主にChatGPTのおかげである。

自分のLLMの使い方はほぼ壁打ちである。
気になったこと、考えていること、仮説を立てたことなどを入力して、ChatGPTはそれを具体化し、あるいは既存の概念がある場合にそれを教えてくれる。結果的に自分の疑問や仮説はブログなどで公開する前にほぼ解消され、PV数も特に気にすることもなくなり、なんだかかなりのストレスがそれで消えた気がする。

仕事で悩んだこと、他人との会話でモヤモヤしたこと、あるいはインターネットの不毛な議論や映画と小説の感想まで。 ブログやnoteやあるいはTwitter(あえてTwitterと表記する)に投稿して、誰かからのいいね一つで満足していたようなこれらのことが、ほぼLLMで完結するようになった。

たとえば、世間で人気の映画と自分の評価に乖離がある作品があるとする。自分はそれをみたときに非常にモヤモヤして、「なぜこの作品が人気なのか。自分としてはこの作品は◯◯と同じようなもので新鮮味はなく既視感しかなかったため評価に値しない」というようなことを入力するとする。
ChatGPTはそれと世間での評価を抽象的に分析して比較し、かつ自分がこれまで入力した文章の傾向を元に「こういう理由で合わないのでは」という結論を出してくれる。
そんなやりとりを数回行えば、自分のモヤモヤはほぼ解消されるのであった。漠然とした不満が文章化されることで具体として認識されるので、ああなるほどこういうことだったのかと自分を納得させられる。

LLM登場前はその役割が日記であり、ブログであり、Twitterであった。 文章にすることで自分で後から読んだり、誰かからのいいねをもらったり、稀にコメントを貰うことで「他の人はこう考えているんだな」とか「他にも同じ意見の人がいるな」というのを検知して安心を得ていたというわけだ。今では他人のレスポンスをほぼ必要としなくなった。LLMを使えば自分が納得するまでその話題を分析し、分解して分類することができるので。

というわけで随分とこの文章も抽象的なことばかりになってしまったが、ブログのような短文を書かなくなった代わりに、他のものへの創作意欲が向いてきた。なので今は小説を書いている。1万文字程度の短編は何度か書いたことがあるが、長編へ挑戦中である。 長編を書くのにはかなりコツというか、やり方が短編と違って大変だしありえないほど時間がかかっている。でもまぁ、今の自分にはこのくらい負荷のかかるアウトプットがちょうどいいのかもしれない。

システム設定言語依存への不満

スマホのアプリにしろゲームにしろ、ハードやOSの設定言語が適用されると少しイラッとする。

……訂正しよう。"かなり"イラッとする。 先日、必要に迫られてマイナポータルのアプリを起動したところ本体設定言語しか適用されず、かなりイライラしてすぐに削除した。

Nintendo Switch2が発売になり、筆者は別に買っていないので関係ないのだが、あれも言語設定に制限があるようで、自分はイライラするだろうなぁと思いながらレビューを眺めていた。ゲームはほとんどの場合PS5でやるが、これもソフトによってはゲームごとに設定できるものもあれば本体言語に依存しているものもあり、後者の場合は結果的にプレイするのが億劫になり、途中でやめてしまうことがよくある。

この話を職場でしたところ──外国人の多い職場ではほとんどの人が同じ意見を持っていた。ありがたい。この世からシステム設定言語依存のアプリを撲滅したいところだ。……筆者に権限さえあれば。

しかし職場以外で、たとえばネットやリアル友人知人に聞いたところで同意は得られることはほぼない。少々マニアックな意見であることは承知の上である。しかし、アプリやゲームの設計者には伝えたい。必ずしもシステム言語とアプリの言語が一致してほしくないユーザーもいるということを。多言語対応にするなら、せめてアプリ内で言語が変更できるようにあってほしい。

具体例を挙げるとすると、一番大きかったのが去年発売になったCoD:BO6だろう。CoDシリーズはいつからそうだか覚えていないが、近年のタイトルはほぼシステム言語に依存していて、ゲーム内で変更ができない。筆者はPS5の本体設定を日本語にしているが、そうするとBO6ではテキストも音声も日本語しか選択できない。ここでゲーム内音声を英語にしようとすると、PS5の設定を英語にするしかなく、そうすると今度はすべての言語が英語になる。

こんなことを気にする人は多くはないだろうが、日本語でのセリフを確認したあとに別の言語に変更したくなることは、洋ゲーをやっていると頻発する。そういうときにゲーム内設定で言語が変更できないと大変面倒なのだ。そして終いにはゲームをするモチベも消え去り、クリアしないままアンインストールすることになる。

スマホの場合は逆で、システム言語を英語にしている。設定をいじるときに英語にしておいたほうが解決方法が見つけやすかった時代の名残のような風習だが、慣れてしまってからは日本語のフォントがなんだかしっくりこないとかそんな理由で英語のままだ。 一方、アプリは必要に応じて日本語にしたり英語のままだったりすることがあるが、これもアプリ側で変更できないとかなりのストレスになる。

そんなわけでマイナポータルアプリを怒りにまかせて削除し、何かの手続きのために出かけないといけないなぁと思いながらこの記事を書いている。

すべてのシステム言語依存多言語対応アプリよ滅びてくれ。そして、アプリ内に言語設定を用意してくれるすべての開発者に感謝したい。

メンタル不調になってからできなくなったこと

数年前、編み物にハマっていた頃に一生もののつもりでレースのショールを作った。イギリス製の毛糸で、それなりに良いお値段だったし、編むのも楽しかったし、出来上がりも満足の行くものだった。

……のだが、一昨年くらいに久しぶりに使おうと取り出したら、どこかに引っ掛けたのか虫に喰われたのか、ところどころ穴が空いていてとてもテンションが下がって捨ててしまった。頑張れば修理できないでもない気がしたが、そのときはもう見るのも嫌になっていたのだ。いつかまた編めばいいと思ったが、あれから編み物をする気分でもなく、市販のストールを買って季節の変わり目を凌いでいる。

良い衣類というものは動物の毛でできているので虫に喰われやすい。洗濯も手洗いしなくてはならないなど、ちょっと手間がかかる。メンタルが不調の人間にそういう手の込んだ家事は不可能なので、次第に使わなくなり、なんかもったいないなと思うという話であった。じゃあ安い化繊の既製品でいい。ありがとう無印。

無印のひざ掛けを今年買ったのだが、二千円以下で暖かくて手触りも良くて気に入っている。現代文明最高だな。

以前好きだった、コーヒーをハンドドリップするのもできなくなった。去年すこし復活した時期もあったが、夏の暑さに負けてまた止めてしまった。今ではほとんど1杯分をドリップできるパックのやつを飲んでいる。今の自分にはこのくらいが限度なのである。

もちろん料理もできない。料理は家事のなかで一番工程が多くて大変だし、そもそも一人暮らしなので料理がよほど好きで無い限りやるメリットもあまりない。とくにメンタルの調子が良くない時期には。そうして数年経ってしまった。人生の真ん中あたりをかなりムダに消費している気がしているが、他にどうしようもないのである。

ほとんどの時間を一人で過ごしている。他人といると疲れるし、あまりメリットはないと思っていたのだが、最近ちょっと落ち込むことがあった。そしていいタイミングで友人宅に行く機会があってお邪魔したときに思った。
「人間は一人でいるとアイデンティティを見失いがちなんだな」
と。

自分では当たり前のことだと思っていても、他人からしたらそうではないとか。そんなの小学生でも知っているはずなのに、長く一人でいると忘れがちなのだ。だって比較できないから。で、この「他人と比較する」という行為はまぁときには自己肯定感を低下させたり嫉妬の感情を抱いたり、ネガティブなこともあるかもしれないが、アイデンティティの維持という点では必要なんだなと思ったのである。

とはいえ人を誘ったりするのはかなり精神力を使うので、結局一人でいいや、AI相手に話せばいいやとなりがちなのである。何事もほどほどにできればいいのだけどね。