ペン一本と、メモ帳

好きなものを好きなだけ

競馬ブームに見る反出生主義とペットの話

ここしばらく、話題になっていたナミブ砂漠ライブカメラをよく見ている。ふと目をやったときに動物がいるとなんかうれしいし、リアルタイムで野生の姿を観察できるのはなかなかおもしろい。毎日見ていると彼らの生態も少しわかってくる。なによりかわいい。

さて、突然だが筆者は反出生主義者である。

反出生主義がどんな意見を唱えているのかを知りたい方はググっていただくとして、今回は自分のペットに対する考え方を書いておこうかと思う。
筆者は犬も猫も好きなので、何もする気が起きないときはYoutubeで動物を見ている事が多い。かわいいペットの動画を見ていたら、とある動物保護団体の動画にたどり着いた。捨てられたり迷子になった猫や犬(ときには鳥も)を保護し、病院に連れて行って健康になったら里親を探して譲渡するという活動をしている人たちだった。

その中でも衝撃を受けたのは、多頭飼育崩壊の現場を取材している動画だった。狭い部屋の中で何十匹もの猫が生活しているので、飼い主は健康状態を把握できず、病気になったり飢えていたりしてボロボロの猫たちが出てくるのはけっこうショックを受けたものだ。

多頭飼育崩壊の原因などはともかく、どんなに責任感のある人間でも、ペットを買うというのは人間のエゴだよなあと、筆者は思う。ちなみに動物は飼ったことがない。実家にも動物はいなかった。小学生のころにカブトムシとか金魚を育てていたことがある程度。

例えば狩猟犬や牧羊犬、警察犬などの仕事をしているもの、牧場でネズミ対策に猫を飼うなど生活に大事な役割を果たすペットはなんとも思わないが、都会のマンションに住んでいるような人たちがペットを飼っているのを見るとなんだかなぁと思う。思うだけで非難する気は毛頭ないが。

上記に上げたように、捨てられた動物の保護活動をしている人たちや、保護された犬や猫をペットとして迎え入れる行為はすばらしいと思う一方で、人間の都合で動物たちがひどい生活をしているのを見ると憤りを感じるのである。なぜそう思うのかと考えてみたら、そもそも自分は反出生主義なのであった。これは二十歳になる前から漠然と思っていたことだが、この考えに名前がついている事を知ったのは大人になってだいぶたった頃である。

2021年は競馬ブームであった。ネット流行語にも競馬関係の名前がいくつもランクインするくらいには流行っていたし、来年もこのブームは続くだろう。馬は好きだ。かわいいし、かしこい。でも、筆者は競馬を見たいと思ったことはないし、馬券を買ったこともないし、ゲームもやってないし、今後もやることはないだろう。競走馬ほど人間の都合で生殖させられている動物は……犬くらいだろうか。

犬と競走馬は血統が重要視される種族である。優秀なもの同士をかけ合わせ、あるいはより特化した特性を得るために交配させられ、生まれてくる動物たち。それを売買する人、飼育する人、診察する人がいて一部の経済が成り立っている。そのことに非常に違和感を感じるのは、自分が反出生主義者だからだという結論に至った。人間のエゴで動物を増やすべきではないと思うのである。人間が育成しなくなったら家畜は絶滅するかもしれないという意見があるが、それはそれで仕方がないのではと思う。

この考えはもちろん人間にも適用される。親の勝手な都合で子供を作るべきではないというのが筆者の考えである。だから自分は生体販売には一切関与しないし、競馬には関わらないし、人間を生産することに関わるつもりも一切ない(最後のはちょっとアセクシャルであることも関係しているかもしれない)。

これで、昨今の競馬ブームに対するもやもや感の正体がなんとなくスッキリした。要は、競馬という完全にエゴによって成り立っている経済に対する違和感なのであった。まぁ、今すぐ競馬を廃止するべきとまでは思わないが、血統云々だけを考え生み出される馬を徐々に減らしていく方向にはならないものかとは思う(莫大な金額が動いているから無理、というのはわかる)。フランスではペットショップを廃止する法律が決まったが、それには賛成する。貴重な血統を守っている人たちは尊敬するが、別の犬種をかけ合わせてかわいいだけの犬を生み出すブリーダーは軽蔑する。

とはいえ、生まれてしまったものはどうしようもないし、動物たちの保護活動をしている人たちを尊敬するし、協力したいとは思うし、今すぐ絶滅すべきとも思っていない。理想は緩やかな絶滅である。家畜も人間も。
ペットを可愛がっている人は良い人だと思うし、友人に子供が生まれたら祝いもする。でも、自分がそれに関与することは今までもこれからもないだろう。

年末になってちょっと過激な思想を書いてしまったのは、例の多頭飼育崩壊の動画を見たことがきっかけであるが、同時に競馬に対するもやもやも言語化することができたかなと思っている。

【読書感想】プラネテス(1)を読んだ。それと本について考えていること

今更ながら、SF系のコミックで有名なプラネテスを読んでみたのでその感想を書いていこうと思います。

読んだきっかけは、フレンドと通話していてちょくちょくおすすめされていたから。全4巻だし、とりあえずと思って一巻だけ買ってみました。Kindleで。

ここ数週間、本を読みたい欲が強くて。所謂活字中毒みたいな状態になっていたので、こうしておすすめの本を手に取る機会も増えた気がします。前から気になってた本とか。個人的には漫画も本の一部なので活字中毒の時に読むのは漫画でも文芸でも小説でもなんでも良いと思ってます。

さて肝心のプラネテスの感想はというと、今(2021年)読むにはちょっと退屈。だけど読んでおいて損はない作品でした。なぜって他のSF作品で引用という名のオマージュとかされていたから。これを読んでようやく、数年前に読んだ小説の元ネタを知る…みたいな状態になったからです。そして引用というなのオマージュされていた小説を読み返す…というループに陥っている現在。

プラネテスを読んでいて特に印象に残っているのが、喫煙シーンが多いこと。他にも、たとえば70年代80年代に書かれたSF小説では当たり前のように宇宙船の中での喫煙シーンが描写されている。そういうところに時代を感じて、ちょっとノスタルジックな気分になったりするのです。今では地球上ですら禁煙が当たり前ですからね。時代です。

仮にもし人類がプラネテスの世界くらいに宇宙進出したとしても、宇宙空間では絶対禁煙だと思うんですよ。ただでさえ酸素貴重だし。 ちなみにそれについて書いている小説もあります。喫煙がメインじゃないけど、タバコとか葉巻を密輸する話。詳細はめんどうなので書きませんが、リンクを張っておきます。

さて、プラネテスの話に戻ります。

主人公はデプリを回収する仕事をする人なのですが、現代ですと人の手で回収するというのはあまり現実的ではないと思われています。テザーとか使って磁気で引き寄せて大気で燃やす、というのがJAXAとかで考えられている方法ですね。なので個人的にこの話にあまりリアリティは感じなかったです。まぁ、宇宙に行くという点にロマンは感じるんですけどね。そう、ロマン。宇宙にはロマンが詰まっている。

地球と宇宙の境目がないという話とか、好きですね個人的に。地球も宇宙の一部。うん、わかるー。とか、一人で盛り上がっていました。

最近自分の中での宇宙観というか、世界観みたいなのができてきて、それについてどこかで書こうと思うのですがなかなか筆が進まずにいました。

本を読むと少しそれが加速する気がして、なのでまたわたしは新たな書籍を求めるのです。

ゴジラS.Pを最終回までみたけどやっぱりつまらなかった人の意見

ハードSF大好きマンの視点で、ネタバレ大いにありでお送りします。ネタバレするって言ったからな!!!!











最終話配信直前まで友人と雑談しながら一気に流し見してて、最終回はネトフリで同時視聴しました。

前回の記事でも書いたとおり、怪獣映画は素人の筆者と、平成初期から怪獣映画を愛してやまない友人(SFに関しては素人)との同時視聴でした。ちなみに筆者は一話で挫折しかけて、「あ、これ自分だめなやつ」と思ってました。なんていうか、小難しい設定を(これ自体は嫌いじゃない)早口で畳み掛ける演出が生理的に受け付けない。

この手法でがっかりしたSF作家脚本の映像作品で、しばしば筆者は絶望してきた。サイコパス然り、正解するカド然り。あとなんだっけ…思い出せないけど、映像化したSF作品の脚本を務めた作家はもれなく嫌いになる程度には苦手な演出なのである。だから一話から嫌な予感はしていた。「これは…色々小難しい設定を出して視聴者を欺いた上に何も解決せずに全ては元の日常に戻って終わるパターンだ」と。予想はほぼほぼ一致し、なんら感動することなく、友人とともにもやもやを抱えたまま視聴を終えてこの記事を書いている。

Q.じゃあなんで見たんだよ!!!

A.友達が面白そうって言ってたからだよ!!!!!

要は話題作りです。 正直言って、OPはかっこいいと思っているし、毎話のシナリオ構成も悪くない。ていうかとても良くできている。時空のねじれがなんとかとか、未来がどうのとか過去がなんとかとかいう話は好き。アニメとしての出来はとても良いと思う。

その上であえて書かせていただこう。

いまそれやる? ハードSF愛好家(自称)としては使い古された手法だし、結局現代技術で時間を操ることなんてできないんだから、ハードSFやるならもっと現実的な方が良いと思う。あ、ちなみにグレッグ・イーガンが大好きです(隙自語)

まぁ、怪獣出してる時点でハードSFとはかけ離れているのですが。だから相性が悪い。相性が悪い分野に、円城塔氏はあえて挑戦したかったのか、それとも大人の都合なのかはわからないが、ゴジラS.Pに関しては全てが中途半端だと感じた。

方や怪獣映画のコアなオタク。かたやめんどくさいSFオタク。この二人が同時視聴したらどうなるかは火を見るより明らかである。

友人氏「ここまで過去作オマージュしてこの演出はガバすぎる。過去作を適当に継ぎ接ぎしたようにしか見えない。そもそもSFをやるのに題材がゴジラである必要が全く感じられない」

筆者「ハードSFと呼ぶには使い古されすぎているネタである。ていうか未来のことを書いていて時間をさかのぼったり未来にデータを送ったりしているのに最終的になにも解決せず日常に戻っているのが解せない」

幸いなことに両者の意見はだいたい一致した。 普段SF作品に馴染みのない友人氏に、日本SFの映像作品がいかに微妙であるかを説明するにはいい機会であったことは確かである。

小難しい設定、自我を持つAI(?)、かっこいいゴジラ。そう、ゴジラは間違いなくかっこよいデザインでした。開発者を守るために自分を犠牲にするロボット、最初からすべて仕組まれていたことを最後に知るという熱い展開。

全部、嫌いじゃないです。むしろ好物です。

その上で書かせてもらう。やっぱりゴジラS.Pはつまらなかった。なんだろう。悪い意味で全てが予想どおりで、想定外の展開というのがほぼなかった。「あーこれね、○○で見た」。オタクの悪いクセである。

引き合いに出すのは大変申し訳無いのだが、同じくリアタイ視聴していたケムリクサは大変おもしろかった。わからない世界の謎を解くという大筋は同じはずなのに……やっぱり脚本の問題なのかもしれない。設定は良いのにそれを活かしきれていない感じが伝わってくる。

筆者は日本SFの限界を、ゴジラS.Pを通して実感してしまったのである。非常につらい。SF大好きなだけにつらい。

科学が進歩しすぎた結果なのか、最近のSF作品は(国産アニメ映画に関わらず)ネタ切れ感が強い。もうね、光速を超えるとか時間を遡るとか無理だから無理に設定しないほうが良いと思うの。個人的な意見です。

いくら技術が進歩したとはいえ、人間の生活圏は地球を出ていない。SFの可能性はまだまだある。そういう作品を見たいなと思いつつ、だれも作ってくれないので自給自足するしかないのだが、それは別のアカウントで行っているのでそちらに書くことにして、今日のところはこれで締めようと思う。

こんな、深夜のテンションで書きなぐった文章を最後までお読みいただきありがとうございました。